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持たざる者の生存戦略

人類最底辺に位置する人間の軌跡

他人の発言をすべて演繹法で解釈するゲーム

今回は,僕が日頃やっているゲームを紹介しようと思う(以下の文章には,アニメ:廻るピングドラムのネタバレがあるので見てない人は注意してほしい).読者諸兄におかれては,上長にもっと論理的に考えろと言われることはないだろうか? 僕はよく言われる.そもそも,論理的とは何かという定義の話は哲学者に任せることにして,僕は,手っ取り早く,論理的というものを演繹的と捉えてみることにした.本日の記事で紹介するゲームは,その結果として生まれたゲームである.

名付けて”他人の発言をすべて演繹法で解釈するゲーム”である.

タイトルと全く同じ名前であり,ひねりがないと思われるかもしれない.だが,ひねってあるのものは,僕の髪と精神だけで十二分であると考える.

 

さて,今回,お借りするのは,以下のWEBページです.

「輪るピングドラム」が「まどマギ」よりも悲しいかったワケ | 一本気新聞 家紋、アニメ、ビートルズ

本ブログのタイトルを見てもわかるだろうが,僕は,ピングドラム大好きっ子である.さて,先ほどのWEBページの文章を全て演繹法で解釈するのは,さすがにゲームのやりすぎだとして怒られてしまいかねない.そこで,今回は,抜粋してきた以下の文章でゲームを行う(注意して欲しいのはこれはあくまでゲームであり,誰かの発言を批判したり,文章を添削したりするのが目的ではないということだ.それになるべく,書き手の言いたいと僕が予測したものを演繹法で書いているが,必ずしもそれが本当に書き手の伝えたいことであるとは限らない)

 

ー引用開始ー

しかし、陽毬が最後に手にしたのは、苹果ちゃん=りんご=ピングドラムだけだったというオチは、確かに、残酷ではあるが、「何かを得れば、何かを失う」というこの世の摂理から見れば、それはそれで正しかったのかもしれないと見るものを納得させる。
考えてもみれば、ピングドラムというリンゴ(=果実)は、冠葉から晶馬へ、晶馬から陽毬へと渡され、(比喩的な意味で)共食されることによって、三人の「絆」の象徴となったことは確かだが、一方で、人類が最初に食することによって罪を背負ったという、アノ果実でもあったのである。陽毬の命を助けるという無理難題を叶えるために、二人の兄がこの世に存在しないこととなったという運命は、それ自体が、リンゴを食したことに対する罰を意味したとも言えなくも無いのである。
現実世界において、のっぴきならない事態を前にして、言霊(例えば「絆」という)の力だけに頼って、何事か、空気が変ったかのように済ませてしまった2011年の日本にあって、この『輪るピングドラム』が放映されたという事実をなんらかの符牒として読まざるを得ない。

ー引用終了ー

まずは,上記の引用を3つの部分に分けてみる.1つ目は,しかしー納得させる.2つ目は,考えてみればーないのである.3つ目は,現実世界においてー読まざるを得ない.である.演繹法について簡単に説明すると,結論ー小前提ー大前提があるということだ.よく使われるのが,ソクラテスは死ぬ(結論),なぜならソクラテスは人間だからだ(小前提)(ここから大前提である”人間は死ぬ”も導かれることになる).さて運用上の注意は以上で終わりにして早速ゲームスタートだ.

 

1つ目の文章は以下のように分解できるかもしれない(あくまで可能性だ.これは,ゲームなんだから,そんなにアツくならないでほしい).

まずは理由(小前提・根拠):

リンゴだけだったというオチは,(残酷ではあるが)「何かを得れば,何かを失う」というこの世の摂理である.

次に結論:

よって,リンゴだけだったというオチは,正しかったのかもしれないと見るものを納得させる.

最後に大前提(論拠):

(残酷ではあるが)「何かを得れば,何かを失う」というこの世の摂理は,正しかったのかもしれないと見るものを納得させる.

 

上記のように分けてみた.つまり,この文章を書いている人は,この世の摂理には,人を納得させるだけの強さがあるということを前提にこの文章を書いていると推測できる.これは,創作論でもよく議題になる作品のリアリティが云々というやつだろう(うーむ,作品のどの部分でリアリティを出すかによってその作品の面白さもまた左右されるのかもしれないということについて考察をしたくなってきた).

この文章に関しては,演繹法で分解するよりも,そのまま読んだ方が理解しやすいかもしれない.

 

次は2つ目の文章である.

理由:

ピングドラム=リンゴは,本作品における絆のシンボルであるが,聖書において人類が背負った原罪のシンボルでもある.

結論:

よって,リンゴ=ピングドラム(=本作品のタイトルの大部分=本作品)は,陽毬を助けるために兄二人がいなくなったという運命をリンゴを食べたことに対する罰として表現しているのではないだろうか.

論拠:

聖書における原罪のシンボルを本作品における絆をシンボルとして用いたということは,リンゴを食べたことに対する罰として陽毬を助けるために兄二人がいなくなったという運命を用いたということである.

上記のように分けてみた.まず,理由の部分でピングドラムを聖書におけるリンゴのシンボルとして捉えつつ,結論の部分では,ピングドラムという単語を作品として利用している.これは,まぁ,創作で言う所の暗喩という技術であると推測される.また,”聖書におけるリンゴを食べる=ピングドラムにおける陽毬が救われる”,”聖書における原罪を背負う=ピングドラムにおける兄二人がいなくなる”.という対比になっているのではないかという仮説に基づいてこの文章を書いたのではないだろうか.しかし,果たしてリンゴを食べるという行為は,救いと言っていいのだろうか? という疑問は残る.

 

最後に3つ目の文章である.が,この文章はかなりの難題だった.といよりも,演繹法ではなく帰納法的な文章な気がしてならないがゲームのルールは演繹法で解釈するなので,演繹法で解釈してみる.

理由:

社会情勢と反対のテーマ性をもった創作物というものは,社会情勢に対する作者なりの意見表明と捉えることができる.

結論:

よって,(2011年の絆という言葉で犠牲を見て見ぬ振りをしていた)社会情勢と反対のテーマ性(=何かを得るためには,何かを失う必要があるというテーマ性)をもった輪るピングドラム(という創作物)(が放送されたという事実)は,(2011年の日本社会に対しての)なんらかの符牒である.

論拠:

社会情勢に対する作者なりの意見表明は,(社会情勢に対する)なんらかの符牒と捉えることができる.

上記のように分けてみた.これは,引用した原文からかなりの改変を加えないと演繹法にすることができなかった.原文は,一見するとなんとなく意味がわかるのだが,演繹的に理解するのに苦労が伴った.おそらくだが,この文の書き手は,輪るピングドラムは,東日本大震災後の2011年,当時の日本社会にあった絆という言葉で現実を見ようとしない風潮に対してのアンチテーゼだったという風にとらえたのではないだろうか.この原文に関しては,理由に当たりそうな部分が複数あること,と明示的に理由を示していないところが演繹的に理解する際のハードルになっているように感じた.

 

以上で,ゲームは終了である.こんな感じで,色々な文章を演繹的に分解して理解すれば,自分もいずれは演繹的に考えることができるようになるのではないかと夢想している.が,道のりは長そうである.(勝手に)引用したWEBページとページの書き手の方に多大な感謝を述べたいと思います.どうも,ありがとうございました.

まだ,生きてますよ(今後の方針)

僕は,最底辺として,まだこの世界でもがき続けているので安心してほしい.

 

今日は,幻想と現実と人類についての考察だ.

過去から現在に至るまで我々人類は現実から目を背けることが多かったのではないだろうかと最近思うことが多い.

例えば,風情とか優雅とか美しいとかそういったものは,本当に我々にとって必要なことなのだろうか.100年後,200年後の人類の発展に芸術とか美的な何かはどれほど寄与してくれるのだろうか.

例えば,我々が風情を感じている間にも世界の資源は減っている.世界のどこかで殺される子供達がいる.もし,真に人類の未来(我々の子供達の将来)を考えるのならば,我々,大人は,風情とか優雅とか優美とか芸術とかにうつつを抜かしている時間などないはずだ.

と僕は最近思うようになった.

 

昔は,芸術とか風情とか優雅とか優美とかそういったものに強く惹かれていた.だけども,アドラー心理学にある共同体感覚に関して本気出して考えてみたり,自分にとって決して得意とは言えないサイエンスの分野で色々とやっていると,そんな感想を抱いてしまった.

 

果たして,僕が文学や芸術によって描き出された風情,優雅,優美にうつつを抜かしている間にどれほどの人間が苦しみと絶望の中で死んでいったのだろうか? そして,僕は,くだらないと断じた現実から目をそらすことで,彼らの絶望に間接的にでも関与していたのではないだろうか?

 

現実はくだらないし,人間はもっとくだらない存在かもしれない.だが,僕は,その現実と人間が集まった人類という共同体に存在している.だとすれば,やはり,少しでもくだらないもの達と戦い,100年後,200年後の人類が希望と幸福の中で生きることができるようにするために貢献するべきなんじゃないだろうか.

 

少なくとも,風情とか優雅とか優美とかを感じることではなく,未来の人類の発展どうすれば寄与できるのかを考えることに今よりも時間を使うべきなのではないかと感じた.あるいは,それこそがアドラーのいう共同体への貢献につながるのではないかと思っている.

 

というわけで,今日も,自分が得意としてるわけではないけど,専門的に学んできたサイエンス分野から100年後,200年後の人類と発展について考えている.これからは,自分の専門分野とそこから人類の未来と発展について書いていくのを一つの方針にしたいと思っている.

頭悪そう

www.sekaihaasobiba.com

 

「頭悪そう」な記事があったので取り上げてみたいと思う.この記事を書いた人(Aとおく)は別のブログで記事を書いている人(Bとおく)に言及をしているらしい.(詳しい事は知らない.だが,今回の論点はそこではないので知らなくても大丈夫である)

この記事が頭悪そうに見える理由は簡単だ.AはBのことを以下のように表現している.

 

ー以下引用ー

このブログを、というかこの人を一言であらわすなら、「無能が嫌で有能な人間 になりたがっている「無能」」というものだ。

ー引用終わりー

 

(上記引用におけるこの人とはBの事であると推測される)

この文章だけ読むとAはさぞ有能な人間なのだろうと感じる.何故ならば,誰かを評価することができるのはその人以上の能力を有しているからだ.もし,評価対象以下の能力しか有していないなら対象を評価をしようがないはずだ.

 

だが,Aは以下のような言及も行っている.

 

ー以下引用ー

ただ、無能であることを卑下する必要はないと思う。能力に恵まれた人間というのは少数派ではあるわけだし、僕にだって能力なんかない。1人の無能な人間だということだ。

ー引用終わりー

 

Aは「自身が無能であると自覚しているにもかかわらず,他人の評価はできる」と思っているわけだ.もし,真に心から無能であると自覚しているならば他人の評価などできないと理解しているはずだろう.だが,評価をしてしまう.何故か?

 

恐らく,Aの虚栄心は計り知れないものがあるのだろう.だが,虚栄心で生きていると他人には思われたくないのだ.

 

「俺,有能だからさ〜」

 

なんて言った日には自分よりはるかに有能な人間から何を言われるかわからない,それが怖いのだろう.だから,自分が無能であるという逃げ道を作っている.他人を評価できる無能という立場である.自分が何か言われれば「だって俺,無能だし〜」と言って逃げられる.非常に狡猾な人間だ.こういうケースで最悪なのは本人がそれに気づいてなさそうなことだ.

 

こういう人間を一言で表すならば,「卑怯な臆病者」だ.ただし,Aが実際に頭がいいか悪いかはわからない.(故に,タイトルは「頭悪そう」であって「頭悪い」と断言してない点に注意されたい.つまり,「卑怯で臆病」である事と「頭が悪い」事は関係ないかもしれないし,そもそも,「頭が悪い」の明確な定義は難しい)

 

*こういう一見すると下手に出ているようで実はただ,自分が逃げられる道を作っている人間は非常に狡猾なので近づかないことをお勧めしよう.こういう人間は,自分が間違えば「だって俺無能だし〜」と言い,他人が失敗すれば「あいつ無能だわ笑」と言うタイプだ.関わるだけ時間が無駄になるタイプの人間なのである.

**だたし,「あえて」狡猾な人間を演じている人間もいる点には注意されたい,この記事はあくまでケーススタディ程度であり,これだけをもってしてAの全てを評価するべきではないということは明記しておく.あくまで,そういう傾向のある人間は関わると危険であるというだけだ.

***「自分もダメだけど,あいつの事をダメだと評価することはできる」という思考回路の人間は,「他人に厳しく,自分に甘い人間」の特徴であると覚えておく良い.繰り返しになるが,そういう人間は相手が問題を起こすと徹底的に相手を糾弾するが,自分が問題を起こしても,「自分は無能である」という言葉に逃げるので注意が必要だ.彼らは,反省という言葉を知らないのかもしれない.

****一方で「自分は優秀だからあいつの事をダメだと評価できる」と言うタイプの人間は非常に傲慢なので付き合っていても何も生み出す事はできないだろう.そういう意味では昔は「単純傲慢ケース」が多かった(単純傲慢ケースの人間はわかりやすいので避けやすい)が最近多いケースはAのような「隠れ傲慢ケース」である(隠れ傲慢ケースの人間は注意深く観察しないとわからないので時間が掛かる).いずれにせよ,傲慢な人間と付き合うと疲弊するだけなので気をつけよう.彼らは隠れサイコパスなのかもしれない.

クリエイターと資本主義

 さて、初めてのお題はいきなりクリエイターについてだ。実は僕、つい最近まで小説家を目指していた。”目指していた”ということはもう諦めたのか?と、思うかもしれないがそれは少し語弊がある。どういうことなのか、説明をしていこうと思う。

 

 そもそも、我々が生きている社会、特に日本は資本主義社会である。”世の中の全ては金である”という発言をする人間がいたら彼は大きな間違いを犯している。なぜなら、金で解決できる事柄は仕事(=ビジネス)に限られるからだ。プライベートな部分は金ではなく人間としての在り方によって対処しなくてはならない。

 

 賢明な読者諸氏はもうお気づきだろう。そう、世の中の全ては金ではない。だが、仕事(=ビジネス)は金である。正確には金に基づいて公正に行われる行為が資本主義社会における仕事の定義なのかもしれない。いずれにせよ、仕事に関しては金が重要な役目を果たしている。それは、会社の資本であったり、我々が手にする給与であったりするものかもしれないし、もっと他の形をとっているかもしれない。

 

 上記から言いたいとこは一つだけである。仕事をする上では金について考えなくてはならないということである。そう、例え我々がクリエイターという職業に就くことになろうともクリエイターを趣味でやるのではなく、ビジネスとして行うのなら金は切っても切り離せないものである。

 

 例えば小説家。現在の出版業界の書籍市場規模は8千億円だが、文庫の市場規模は1千億円程度である。漫画業界はコミックスで2千億円、電子書籍市場は1千4百億円のうち8割の1千億円近くがコミックスらしい。とにかく、書籍市場の規模は年々下がっているし、日本人の人口も減っておりこれ以上の市場拡大は見込めないだろう。

 

 ここで、ダン・ブラウンという作家をご存知だろうか。彼は2014年のフォーブズによるとその年の収入は28億円だったらしい。村上春樹石田衣良でもせいぜい1億円稼げれば良い日本における書籍市場の現状に比べると破格の年収を叩き出している。何故か? 彼は英語で本を出版しているからである。英語を読める人間は日本人の何倍いるだろうか。私は具体的な数字はわからないが、日本人の作家の年収と比較しておよそ28倍くらいいるのではないかと予想する。つまり、日本の人口を1億人とすれば、世界人口が64億人、そのうちの半数は英語圏なのではないだろうか。(調べてみた結果1/4が英語圏らしい。つまり、世界人口70億人において18億人くらいである。)ともかく、英語圏で出版できる外国の作家と日本の市場でしか勝負できない日本人作家では、はじめから大きな差が存在するということだ。

 

 次に、漫画と小説の比較をしようと思う。漫画は世界に出しやすいが、小説は違う。何故か? 漫画は台詞を英語に変えるだけで済むからだ。つまり、漫画は小説の地の文を絵としている点で外国語への転換が容易なわけだ。(情報を圧縮しているとも言えるかもしれない。絵にすることで言葉の情報を圧縮できるという考え方はおもしろい考察ができるかもしれない)ともかく、小説を英語圏に売りつけるのは非常に難しいことだけは伝わっただろう。

 

 なぜ、ここまで金について話しているのかは前述した通りだ。つまり、英語圏の市場を取れない時点で日本語で書く小説家という職業は資本主義的にはナンセンスである。と言わざるを得ない。もう、資本主義的にナンセンスであるのならばそれは職業というよりもヴォランティアや趣味に近いと言ったほうがいいかもしれない。(だが、ここまでクリエイターはナンセンスと言っておきながらクリエイターを目指した方が良い人間もいる。それについては後述する。)

 

 さて、ビジネス脳をしているならば、漫画家を目指せばよかろう。という結論に至るかもしれない。確かに、漫画であれば外国の市場に持って行きやすい。だが、漫画家の欠点としては一人で作品を作るのが困難であるという点が挙げられる。より正確に述べるならばアシスタントが必要な職業なのである。確かに、漫画家は市場的には優れている。(事実、コミックスの市場は文庫市場の2倍のある。)だが、その優位性は漫画業界にとって恩恵があるだけで、漫画家にとってはあまり恩恵はないかもしれない。(私は漫画に詳しくないのでここらへんは漫画家に聞いてほしい)

 

 ここまでで、結論を出そう。職業としてのクリエイターはその職業以外になれない人間がなるべき職業だと僕は考える。例えば、今の君が就職活動をしたけれど、中小企業すらまともに受からずにコンビニ店員のアルバイトしか受からなかったとしよう。(理由はいろいろある。君がコミュ障であったり、君の能力が求めている水準よりはるかに低かったり……)いわゆるフリーターである。その状況ならば、クリエイターになって人生一発逆転を狙うというのは資本主義的にはアリな選択だと思う。事実、小説家の平均的な年収はサラリーマンの平均的な年収より少し安いくらいだ。実際問題として、中小企業にすら受からない君はおそらく一生フリーターとして食っていくことになるだろうから、それならば小説家を目指したほうが職業選択としては良いだろう。だが、もし君に大企業の名前が入った企業(東芝○○とか)に入れるぐらいの能力があるのならばその企業で上を目指すか、もしくは数年後に独立することを視野に入れて行動を起こしたほうが良いだろう。なぜならば、君は社会が求めているスキルを現状で持っているからだ。そして、その君が持っているスキルは小説を書くスキルや漫画を描くスキル、アニメーションを作るスキルよりも現在となっては、はるかに市場価値の高いスキルなのだ。もし、君がどうしてもクリエイターになりたいのならば大企業の派閥争いに負けて出世レースから外れるか、起業したが失敗して無一文になってからでも十二分に間に合う。それどころか、もしかしたらその頃になったら君にとってもっと面白いクリエイターの仕事があるかもしれない。(現在で言えばユーチューバーやゲーム実況、歌ってみたなど)

 

 ということで、職業選択の際は現在自分が持っているスキルの市場価値をよく見極める必要がある。自分のなりたい職業の市場価値と自分が持っているスキルの市場価値を比較しより高い方を自分の職業にした方が良い選択になるだろう。(趣味ならば自分の好きなことをすれば良い。また、金持ちの道楽でも好きなことをすれば良い。ここではあくまで一般人における仕事の話である)

 

 とはいうもののやはり、小説で金儲けがしたいという気持ちはあるので次回は小説のビジネスモデルについて考えてみたい。

 

 最後に記しておくが、これは現在の僕の考えだ。明日にはこの考えが変わっいる可能性だってある。とにかく、これは僕の日記みたいなものだから感情的にならないでほしい。